十?を前に(して) …临近
名詞につく。「ある物事、ある人、ある場所に直面して」という意味に使われる。時間的関係を表す場合は[~を控えて」と言い換わる。
日本人に愛好される俳人一茶は、死を前にして、こんな句を残した。(日本人喜爱的俳句诗人一茶在生命的最后一刻留下了这样的诗句.)
病気の孫を前にして、その老人は代われるものなら代わってやりたいと言った。(面对生病的孙子,那位老人说,如果可以替代的话我愿意代他生病。)
試驗を前にしても、やはりパソコンゲームに夢中になっていて本当に困った子だ。(考试即将来临,可这孩子仍然沉溺于电脑游戏,真让人头疼。)
大自然を前にして、我々人間がいかに非力で弱い存在であるか、つくづく感じさせられた。(面对大自然我们深深感到人类是多么的无能和脆弱。)
動かぬ事実を前にして、彼はすべてを白状した。(在铁的事实面前他坦白了一切。)
表現の学習
一 判断を表す表現
日本語の中で文末が重要な役割を果たしている。そしてこれもわれわれ外国人には使いこなすのがたいへんなところである。ここでは主に判断を表す表現をまとめ、以下には婉曲的判断か確信かという二つの機能別に例文を並べることにする。
1 婉曲的判断(非断定)
婉曲的表現とは自分の意見を控えめに主張するのに用いる表現である。相手が自分と異なる意見を持っている、相手にとって同意しにくい内容を持ち出す場合によく使われる表現である。
日本語の中で、一番便利なことばは、「まあ」という慣用語であろう。(日语中最方便的词要算是“まあ”这个常用词了。)
そうした太古の記憶が懐かしいイメージとなってあの「日本三景」に結晶しているのではなかろうか。(也许是那个太古时代的记忆留下了令人怀念的印象,于是形成了“日本三景”。)
しそれだけではなお不十分であるように思われるので、さらに歌を歌うようにした。なるべく忘れかけている昔の歌だ。(我想一个人过日子如果脑子糊涂就麻烦了。以后要尽可能地一个人自问自答。但又觉得好像光这么做还是不够,于是我就唱歌,尽可能唱ー些已经开始忘却的老歌。)
まとめ
「だろう』は話し手の考えを断定しない(非断定)で述べるときに使う。ただし、「だろう」がこの用法で用いられるのは主に書きことばにおいてであり、話しことばでよく使われる「だろう』は確認の用法である。[向こうに赤い屋根の家が見えるだろう。あれが美術館だよ。』の「だろう』は確認の用法である。
「だろう」に似た働きをする表現に、「と思う–と思われる’と思える‘ように思う?ように思われる?ように思える?のではないか?のではないだろうか,のではなかろうか」などがある。
「と思う」は話しことば?書きことばの両方で使われる。ただし、話し手の個人的、主観的な考えを明示するための表現なので、客観的な情報を示す必要がある場合や論文などには適さない。
「だろう(と思う)?のではないか.のではないだろうか(のではないかと思う)」の順により控えめな表現になる。いうまでもなく『ように思われる』も「ように思う」より主張を弱めて言っている。