目の前の棚に薬瓶[1] は並んでいたが、私にはどれが熱さましか分からない。だめと知りながら、看護婦さんをつかまえよう[2] と試みた。小走り[3] に通るだれもが、当然すぎることに、一言二言を残して走り去ってしまう。少女の必死[4] な視線が待ちうける薬局に、私はむなしく[5] 戻り、一縷[6] の希望を断ち切る[7] 役を果たすしかなかった。鉄格子[8] を握った指が折れそうにしなり、整った[9] 顔がゆがんで[10] 、少女は額を格子に押しあてて泣いた。
半世紀たったいまも、あの少女は度々私を訪れてきて、鉄格子を握っては泣き沈む。せめて私が、毒にならない薬を知っていたら、どんなによかったか。メリケン粉[11] でも、砂糖でも、当時の貴重品[12] の一掬いが裁量[13] できたら、どんなによかったろう。知らぬふりで薬包みにして渡せば、死にゆく父?夫に、せめて熱さましは飲ませたと、家族の心情[14] はのちのち[15] まで、どれほどか救われたことだろうに。
もっと心に責める思い出もある。衣服は焼けたのか、吹き飛んだのか、全裸[16] の人も少なからずいた。頭といわず、顔といわず、アスファルト[17] をかぶったように、砂利[18] 様のものが黒くこびりつき[19] 、血で固まった[20] 人たちが多くいた。私と同年輩[21] のその少女も、頭から額にかけてアスファルト状になり、全裸の皮膚が墨汁[22] を浴びたように煤けて[23] 、乾いた[24] 血が全身をくまどって[25] いた。
待合室の次の間の壁際[26] に倒れて、動かなかった彼女が、何日目だったろう、小走りに過ぎようとした私のモンぺ[27] の裾[28] を、いきなりつかんだ[29] 。やせて[30] 傷ついた体躯[31] からは、想像もつかない強い力だった。焦点[32] の定まらない[33] 顔を向けて言った。
「起こして、からだが痛い……。」
あのとき、突如[34] 、私をわしづかみ[35] にした恐怖[36] を、説明しようも、弁解しようもない。私には勇気が足らず、愛が足らず、からむ[37] 指を無意識に振りほどいていたのだった。
「新型爆弾」……の噂が流れてきたのは、7日の夕方ころだった。あのときの、ゾッと[38] 身の毛のよだつ[39] 感覚が、忘れがたい。「原子爆弾[40] 」という呼び名[41] を、いつ聞いたかは、記憶にない。ピカッと[42] きて、ドンで一切[43] が壊滅[44] したのだから、広島の人間にはあくまで「ピカドン[45] 」で、「原子爆弾」はよそよそしい[46] 言葉だった。
[1]薬瓶◎【くすりびん】
【名】
药瓶,装药的瓶子。(薬の瓶。)
[2]捕まえる◎【つかまえる】
【他动·二类】
(1)[にぎる]抓住(……不放); [にぎってひく]揪住。
△チャンスを捕まえる。/抓住机会。
△袖をつかまえて放さぬ。/揪住袖子不放。
△給仕をつかまえてカクテルを注文する。/叫住服务员要鸡尾酒。
△その点をしっかりつかまえなくてはならない。/必须牢实地掌握这一点。
△犯人を捕まえる。/逮住犯人。
△猫を捕まえる。/把猫捉住。
△車を捕まえる。/叫住(行驶中的无客的出租)汽车。
[3]小走り③【こばしり】
【名】【自动·三类】
小步疾行,碎步急行。(小またで走るように急いで歩くこと。)
△小走りで走る。/小步急行的走着。
[4]必死◎【ひっし】
【名·形动】
(1)必死。(全力を尽くす。)
△必死の覚悟。/殊死的决心。
(2)拼命。(けんめい。)
△必死になって働く。/拼命干。
△犯人が必死に逃げる。/犯人拼命地逃跑。
△必死の勇を振るう。/鼓起浑身的勇气。
(3)〈将棋〉将死。(次の手で必ず詰めとなるような形。)
△必死の手。/将死的一步。
[5]むなしく②【むなしく】
【副】
徒然,枉费。(かいもなく。)
△健闘むなしく。/白费力气。
[6]一縷②【いちる】
【名】
(1)一缕,一线。(1本の糸。また、そのように細いもの。)
(2)一丝,一点点。(ごくわずかであること。ひとすじ。)
△一縷の望みを残す。/留有一丝希望。
[7]断ち切る③◎【たちきる】
【他动·一类】
(1)截断,割断,切开,切断。(切りはなす。)
△電線を断ち切る。/切断电线。
△紙をふたつに断ち切る。/把纸裁成两半。
(2)断绝。(途絶する。)
△連絡を断ち切る。/断绝联系。
△ふたりの関係を断ち切る。/断绝两人的关系。
△未練を断ち切る。/不再留恋;一刀两断。
(3)截断。(遮断する。)
△補給路を断ち切る。/截断给养线。
[8]鉄格子【てつごうし】
铁格栅
[9]整う③【ととのう】
【自动·一类】
(1)匀称。均匀。完整。(欠けるところなくきちんと揃う。)
△整った文章。/完整无缺的文章。
△整った服装をしている。/衣着整齐。
△整った字を書く。/字写得工整。
△目鼻だちが整っている。/眉目整齐〔清秀〕。
(2)整齐协调。(調子が合う。)
△隊列が整う。/队形整齐。
△調子が整う。/协调。
[10]歪む◎②【ゆがむ】
【自动·一类】
(1)歪斜,歪曲,歪扭。(形が正しくなくねじけ曲がる。)
△ネクタイが歪む。/领带歪了。
△苦痛でゆがんだ顔。/疼得龇牙咧嘴。
△高熱でゆがんだ鉄柱。/由于高温而变了形的铁柱。
(2)不正。(心や行いなどが正しくなくなる。よこしまになる。)
△ゆがんだ見方。/歪曲的看法。
△心がゆがんでいる。/心地不正;心眼歪。
△根性がゆがんでいる。/性格乖僻。
[11]メリケン粉 [U]
メリケンこ
[0]〔メリケン粉〕〈名〉
小麦粉/面粉?白面?
[12]貴重品◎【きちょうひん】
【名】
贵重物品。(高価で大切な品物。)
△貴重品輸送。/贵重品运送。
[13]裁量◎③【さいりょう】
【名·他动·三类】
斟酌决定,酌情处理。(自分の考えで問題を判断し処理すること。)
△自由裁量。/自由裁度。
[14]心情◎【しんじょう】
【名】
心情。(心の中で思っていること。心の状態。)
△人の心情を察する/体谅别人的心情。
△彼の心情はじつに哀れむべきものがある/他的心情实在值得同情。
[15]後後◎【のちのち】
【名·副】
将来,之后。(それよりずっとあと。また、これから先。将来。)
△後後困るのよ。/以后不好办啊。
[16]全裸①◎【ぜんら】
【名】
赤裸,赤身裸体,精光,一丝不挂,光着身体。(身に何もつけていないこと。まるはだか。すっぱだか。)
△全裸走を宣言する。/宣称要裸奔。
△負けたら全裸で帰る。/要是输了,我光着身子回去。
[17]アスファルト③【アスファルト】
【名】【英】asphalt
柏油,沥青。(道路の舗装、建材、電線被覆に用いる固体。)
△アスファルトをしく。/铺柏油。
△アスファルトをしいた道。/柏油路。
△アスファルト·セメント。/沥青膏。
[18]砂利◎【ざり】
【名】
沙石。(砂まじりの小石。じゃり。)
[19]こびり着く④【こびりつく】
【自动·一类】
(1)粘着,附着。(〔強い粘着力や強烈な印象のために〕くっついてしまって、容易に引きはがせなくなる。)
(2)缠绕,萦绕。(ある人の身辺にまつわりつく。)
△頭にこびり着いて離れない。/深深印在脑海中挥之不去。
[20]固まる◎【かたまる】
【自动·一类】
(1)变硬;凝结,凝固;成块儿。(固くなる。凝結する。)
△コンクリートが固まる。/混凝土凝固了。
△雨降って地固まる。/雨后地面变硬;不打不相识;纠纷之后反更加平静;坏事变好事。
(2)固定,稳固,成形;(天气等)安定,稳定;不再发展。(たしかになる。しっかりした状態になる。確実なものになる。)
△よく相談し合ったが意見が固まらなかった。/多方商洽意见未能一致。
△ひと晩考えてみたがまだ決心が固まらない。/考虑了一夜还没下定决心。
△縁談が固まった。/亲事说定了。
△証拠が固まる。/证据确凿。
(3)集在一起,成群,成块儿。(集まる。一かたまりとなる。一団となる。また、団結する。)
△寒いので,みんなストーブのまわりにかたまっている。/因为天冷,大家都聚集到火炉的周围。
△固まらずにもっと散らばれ。/不要聚在一块,再分散些!
(4)热衷于,笃信(宗教)。(一心をこめて他を顧みない。熱中する。こりかたまる。)
△排外思想に固まっている。/热中于排外思想。
[21]同年輩【どうねんぱい】
年纪差不多,年岁仿佛〔相仿〕.同年輩の作家が集まった/年岁相仿的作家会集一堂.
[22]墨汁◎【ぼくじゅう】
【名】
墨汁。(筆やペンにつけてすぐ書けるように製造された、墨色の液。)
[23]煤ける◎③【すすける】
【自动·二类】
(1)烟熏,煤烟熏污。( すすがついて黒く汚れる。)
△鍋が煤ける。/锅被烟熏黑。
(2)变成黑褐色。(古くなって汚れた色になる。)
△壁が煤ける。/墙壁变成黑褐色。
[24]乾く②【かわく】
【自动·一类】
(1)干燥。(熱などのために水分や湿気がなくなる。)
△洗濯物が乾いた。/洗的东西干了。
△池の水が乾いてしまった。/池子里的水干了。
(2)冷淡。无感情。(感情や生気が感じられなくなる。うるおいに欠ける。)
△乾いた声の女性。/声音冷冰冰的女人。
△乾いたうつろな目。/空洞无神的眼睛。
[25]隅取る③【くまどる】
【他动·一类】
(1)〈剧〉勾脸谱。(絵画、特に日本画で、遠近·高低などを表すため、墨や絵の具でさかい目をぼかす。くまをとる。)
△役者が顔を隅取る。/演员勾脸谱。
(2)用颜色渲染,晕映,勾画轮廓、界限。(陰影や濃淡などで境目をつける。)
△地図を隅取る。/用颜色画出地图的界线。
[26]壁際【かべぎわ】
墙边 墙角
[27]もんぺ◎③【もんぺ】
【名】
(日本农村妇女劳动时穿的)裤子。(山袴の一種。袴の形をして足首の所でくくるようにした、ももひきに似た労働用の衣服。主に農山村の女性が用いる。防寒用を兼ねる。)
[28]裾◎【すそ】
【名】
(1)衣服的下摆。(衣服の下の縁。)
△着物のすそを捌く。/梳理和服的下摆。
△裾がはだける。/衣服的下摆张开。
(2)山麓。(山のふもと。)
(3)下端,末端。(物の端。また、末や下の部分。)
(4)河的下游。(川の下。)
[29]掴む②【つかむ】
【他动·一类】
(1)抓;抓住,揪住。(しっかりと握り持つ。)
△つかめない。/抓不了。
△手をつかんで放さない。/抓住手不放。
△髪をつかんで引き倒す。/揪住头发拖倒在地上。
△大金を掴む。/抓大钱。
△しっかりつかんで放すな。/紧紧抓住别松手。
△チャンスを掴む。/抓住机会。
(2)抓住;掌握住;了解到。(とらえる。)
△人心を掴む。/得人心;获人心。
△問題の核心を掴む。/抓住问题的核心。
△文の大意を掴む。/抓住(领会)文章的大意。
△大衆の生活状況をはっきり掴む。/明确了解群众的生活情况。
△さらに敵情を掴むようにする。/进一步掌握敌情。
△ようやくその特質をつかめるようになった。/逐渐摸到了它的特性。
(3)获得。(自分のものにする。)
△利益を掴む。/获利;得利。
[30]痩せる◎【やせる】
【自动·二类】
(1)瘦。(からだの肉がなくなって細くなる。)
△やせて背の高い人。/瘦高的人,细高挑儿。
△見るかげもなく痩せる。/瘦得不象样,瘦得皮包骨。
△病気をしてから,だいぶやせた。/得了病以后瘦了好多。
(2)瘠薄,贫瘠。(土地に植物を生長させる力がなくなる。)
△この畑はやせていて何もできない。/这块地贫瘠,种什么也不行。
△やせても枯れても彼は作家だ。/不论怎么落魄,他还是个作家。
[31]体躯①【たいく】
【名】
身躯。(からだ。また、からだつき。体格。)
△しなやかな体躯。/柔软的身躯。
[32]焦点①【しょうてん】
【名】
(1)〈理〉焦点。(鏡·レンズなどで、光軸に平行な光線が反射あるいは屈折して集まる一点)
△焦点を定める/定焦点。
△焦点をあわせる/对准焦点。
△焦点距離/焦距。
(2)焦点,中心,核心。(人々の関心や注意が集まるところ。また、物事の中心となること)
△話題の焦点/话题的中心。
△ニュースの焦点/新闻的焦点。
△問題の焦点に迫る/逼近问题的核心。
△話の焦点がすこしずれている/说话有点离题了。
△この点に焦点をしぼって論じよう/集中到这一点上来讨论吧。
[33]定まる③【さだまる】
【自动·一类】
(1)定,决定,规定。确定,明确。(きちっと決まった一つの状態になる。考え·方針などがきちんと出来上がる。確定する。)
△大勢が定まった。/大势已定。
△方針が定まった。/方针已定下来了。
△定まった時刻に…/在规定的时刻……
△時間と場所がまだ定まらない。/时间和地点还没定下来。
△…に対する評価が定まる。/对……的评价已决定。
(2)安定,平定,稳定,固定,定下来。(物事が、変化·移動などをしないようになる。安定する。)
△天下が定まる。/天下平定。
△反乱が定まった。/叛乱平息了。
△天気が定まらない。/天气阴晴不定,气候总不稳定。
△考えが定まらない。/想法不定,拿不定主意。
△彼は定まった職業がない。/他没有固定的职业。
[34]突如①【とつじょ】
【副】
突如其来地,冷不防,突然。(だしぬけ。突然。)
△突如文壇に現れた新人。/突然登上文坛的新人。
[35]鷲掴み③【わしづかみ】
【名】
(1)猛抓,大把抓。(鷲が物をつかむように、あらあらしく物をつかむこと。)
△札束を鷲掴みにして逃げる。/猛地抓起一捆钞票就跑。
(2)一种捕鱼器具。(海底の貝類をとる漁具。長い柄の先にはさみ状の金具をつけたもの。)
[36]恐怖①◎【きょうふ】
【名·自动·三类】
恐惧,恐怖。(恐ろしく感じること。)
△恐怖に襲われる。/感到恐怖;害怕。
△恐怖の色をみせる。/现出恐怖的神色。
△恐怖の念を抱く。/抱有恐惧之感。
△恐怖におののく。/吓得发抖;惊恐万状;胆战心惊。
△恐怖と不安にかられる。/陷于惶恐不安。
[37]絡む②【からむ】
【自动·一类】
(1)缠在……上。(離れずにまきつく。まといつく。まつわる。)
△つる草が木に絡む。/蔓草缠树。
△朝顔が垣根に絡む。/牵牛花缠在篱笆上。
△たんがのどに絡む。/痰堵在嗓子上。
(2)找茬儿纠缠,胡搅蛮缠,无理取闹。(難題を言いかけてうるさくつきまとう。)
△彼はよく人に絡む。/他好找茬儿纠缠人。
△酒をのむとすぐからんでくる。/一喝酒就借酒找茬儿。
(3)密切相关,紧密结合。(密接にむすびつく。)
△金が絡む。/牵涉到钱的问题。
△彼は義理にからまれていやとは言いかねた。/他碍于情面不好推辞。
[38]ぞっと◎【ぞっと】
【名】
(1)打寒战,寒毛凛凛;毛骨悚然『成』。(寒さや恐ろしさのために,全身の毛が逆立つように感じるさま·)
△背筋がぞっとする。/后背发冷。
△考えただけでもぞっとする。/仅只一想就毛骨悚然。
△ぞっとするほどいやなやつ。/令人恶心的家伙。
(2)表示强烈惊叹。(強い感動が身体の中を通り抜けるさまを表す語。)
△ぞっとするほどの美人。/令人惊叹般的美人。
[39]よだつ②【よだつ】
【自动·一类】
(毛发)悚然立起。(与えることと奪うこと。与えたり奪ったりすること。)
△身の毛がよだつ。/毛骨悚然。
[40]原子爆弾④【げんしばくだん】
【名】
原子弹
[41]呼び名◎【よびな】
【名】
(不同于本名的)通称,惯称。(物や人が普通に呼ばれている名。特に、正式の名前に対して平常呼ばれている名。)
△呼び名をつけろな。/别给我起外号。
[42]ぴかっと②【ぴかっと】
【副】
闪,闪烁。(一瞬鋭く光るさま。ぴかりと。)
△ぴかっと光って雷鳴がとどろく。/天空闪烁了一下,接着传来雷鸣声。
[43]一切①【いっさい】
【名·副】
一切,全部,都(全部);一概。(例外なく。)
△一切君にまかせる。/一切委托给你。
△一切の費用は当方持ち。/我方担负全部费用。
△一切の便宜をはかる。/给予一切方便。
△肉は一切食わない。/肉全都不吃。
△一切知らない。/完全不知道。
△掛け売りは一切いたしません。/概不赊帐。
△お心付けは一切辞退致します。/谢绝小费。
[44]壊滅◎【かいめつ】
【名·自动·他动·三类】
毁灭,歼灭。(破れ滅びること。壊れてなくなること。)
△壊滅的な打撃をうける。/受到毁灭性的打击。
△敵の1個師団を壊滅する。/歼灭敌军一个师。
△火山の爆発でひとつの都市が壊滅した。/由于火山爆发一个城市毁灭了。
[45]ぴかどん【ぴかどん】
原子弹
[46]余所余所しい⑤【よそよそしい】
【形】
疏远,冷淡,不亲热。(見知らぬ他人に対するような、親しみを全く示さない態度である。)
△わざと余所余所しくする。/故意很冷淡。