手作り幻想
本文
川田順造
アフリカから久()しぶりに日本()に帰()って、「手仕事()」や「手作()り」ということに、異常()な関心()が払(われているのに驚()いた。それまでの2()年半()、私)が、基礎的()な生産技術()の調査()をしていた西()アフリカ内陸()の社会()では、人々()は労苦()の多()い手仕事()に追()われていて、できればもう少()し、作業()が機械化()されればよいと切実()に考()えている。それは、つい40年()ばかり前()まで杵()で餅()をつくの、私()たちの先祖()の願()いでもあったにちがいない。
だが、そうした願()いが、いくつかの面()でかなえられてみると、今度()は、そういう方向への社会や技術の変化がもたらす、否定的な側面が浮かび上がってくるのであろう。機械化による規格品の量産、こま切れの分業。作る者自身が、作られる物の全体を構想し、創意と肉体の修練を生かして自らの手で完成し、生活の糧を得るという喜びの喪失。それは、人間のかかわり合う範囲の拡大、生産 流通•消費機構の巨大化、国際化された技術の進歩と欲望の肥大のいたちごっこのうちに、しだいに勢いを増しながら人類を押し流している。この流れに関しては、採集 狩猟の生活から、自然の大為的なコントロールと食料生産へと踏み出した新石器時代以降、程度の差こそあれ、基本的な志向において人類のすべてが共犯者であったように見える 。
現実に存在する物質上の不平等がもたらす不幸、量産が可能にした豊かな物質生活と労働における人間の疎外との軋櫟は、社会体制を越えた、工業化の不徹底な過渡期の現象であると言えるのだろうか?物資の規格化、ユニッ卜化、多様化と、生産のオートメ ーション化、流通の国際化がさらに進めば、バラエティに富んだ世界各地のユニットを、各個人が自由に選び、オートメーション化によって得られる時間と労力を割いて、各自の生活に必要なものを、各地の貸し作業場を使って、住居や自動車から、家庭用品や衣類にいたるまで、「手仕事」で作る(工業的量産は、ユニットと半製品の生産に重点が置かれるようになる)ことが、可能というより必要になる時代が到来すると言えるだろうか?
肯定形ではない、疑問符のたくさんついたこの問いは、街の店頭に文字どおり氾濫する商品を見て、「過剰だ、過剰だ。」とつぶやかずにはいられない日本に帰って、真っさきに私の心によみがえったものであり、しばらく前まで、あの乾からびた乾季のサバンナの、ビニールの空き袋一つでも子供が奪い合う社会に暮らしている間、池の底から水面の喧噪を見上げるような気持ちで、繰り返し自問していたものだ。
変化の激しい日本に戻った当初の私が、うろたえさせられることの多かつた中で、些事ながら今も忘れないのは、年の瀬で雑踏する東京の街を歩いていて、食品売り場で「杵つき餅」と大書したビラが目に入ったときの、いぶかしさの混じった驚きの気持ちだった。アフリカで、食物といえば臼と杵でつくのを見慣れていた私が、軽い興奮を抑えて、人込みを分けて近寄ってみると、鉢巻きをした若い男が「さあ、杵つき餅だ、杵つき餅。」と呼ばわっている。聞くと、某地方で人が杵でつき、つきたてをその日のうちに東京へ運んでくるという。私も日本の餅は、手づきと聞けばとりわけ懐かしく、幾切れか買って帰り、早速、東京ふうの雑煮に仕立てて食べた。
運が悪かったのかもしれない。私の食べたその餅は、粳の多い、たいそうあっさりとついた餅で、粘るどころではなかった。蒸籠の湯気のこもった土間に臼を据え、松薪でも割るような張りのある杵の音と、こね取りの掛け声もろともつき上がる、私の少年時代にまだあった餅は、辛味餅にしても、のし餅にして雑煮に作っても、粘りからして違ったものだ。
今、東京の町で売っている「杵つき餅」にも、私がたまたま食べたものよりおいしい餅はあるのかもしれない。だが、期待のあとの失望から私が邪推せずにいられなかったのは、手作りだからこそ手を抜いてあるのではないかということだった。事実、好奇心に駆られた私が、近所の菓子屋の、機械づきであることを確かめて買った切り餅を、同じ鰹節の出しと小松菜の雑煮で食べ比べてみると、機械が骨惜しみせずに働いてついた餅のほうが丁寧につけていることは、歴然としていたからである。
だから「手作り」などというものも、しょせん、商業主義によって簡単に堕落するのだと言ってしまうのは、だが、物事の局部的なとらえ方というものであろう。現代生活における手仕事の復権を標榜する工芸展では、私は同一の事象の、反対の側面を見せられる思いがしたからだ。
確かに、そこに展示されているものは、みごとな手作りの逸品ばかりだった。決して手を抜いてなどいない。むしろ工夫されすぎ、手がかけられすぎている。あまり工夫が凝らされていて、実用にはどうかと思われるものも多く、そして何よりの欠陥は、どれもひどく値が高いことである。一昔前なら、 太郎兵衛さんがどじょうをすくったような、なんの変哲もない浅い竹のざるが、1.5万円などというのを見ると、これはいったいどういう人が買って、何に使うのかと首をかしげたくなる。
手仕事によってしか人間が物を作ることがなかった時代には、大切なのは、 実用品としてものがよく、値が安いということだった。偏屈な名匠でもなければ、効率よくたくさん作ることもまた、値を安くするために必要だったはずである。しかし、こうした要請のいくつかは、機械化と、世界のさまざまな地域の交渉の緊密化によって、手仕事ではとうてい及ばないところまで達成されてしまった。
工業化の進んだ今の日本では、物を作るという元来単一のものだろた行為は、疎外された労働による量産と、高度の技術をもつ少数の工芸家による、少数の富める風流人のための贅沢品の製作とに分裂してしまっている。しかも後者は、ありきたりの実用品の市場からは、前者によって完全に締め出されているために、工芸家一人ひとりの個性やデザインの奇抜さ、技巧の特殊性を掲げざるを得ない。作品が規格に従って量産されない点でも、実用を離れた美的価値に重点が置かれている点でも、現代の工芸家はかっての工芸師ではなく、近代的な意味での芸術家になりつつある。
この両極に挟まれて、近年盛んになってきているのが、疎外された労働と引き換えに手に入れた金銭と余暇で、自分自身や親しい者のために何かを作る、趣味の手仕事だ。これは純粋に回復された手仕事のようでいて、その実、 元来の「職」としての手仕事の社会•経済的な意味がすっぽり抜け落ちている。それだけではない。そこには、「雑器の美」といわれたもの、機能性と経済性が装飾性や象徴性と緊張を保つところに、巧まずして生み出される「かたち」の美しさ、無名の集合としての工人が、無名の集合としての使用者との長い交流の中から集合的な知恵によって作り出した「用の美」は求むべくもない。第一その種の美は、機械が未発達で、実用品の量産がもっぱら手仕事で行われていた時代、今の工業社会では過去のものとなった一時代の産物であったことを知るべきだ。物を作り、使う条件が全く異なっていたかっての一時代に成立し得た工芸の美を、今日人工的に追い求めるのは、むなしい幻影を追うことでしかあるまい。
この第三の、いわば「ホビーとしての手仕事」が、分極化した前二者をつ158日语综合教程第七册なぐ役を果たし得るとしたら、それは先に述べたような、手仕事のユニットとしての物資の量産と、そのオートメーション化による労働者の余暇の増大によらざるを得ないだろうが、それは、ほかならぬ手仕事幻想を生んだ元凶である、第一の量産の場での労働疎外を、ますます強めることの代償としてしか得られないだろう。
かくて、押し戻しようもない流れの中で、感傷的に夢想され求められる「手作り」が露呈するのは、一方では「手作り」という名目の悪しき商品化であり、他方では、かつての手仕事の社会的な意味がはがれ落ちたあげ句の骨董化なのである。
手仕事をめぐるこのような倒錯状況を生み出している責任は、すでに変わってしまっている現実にあると同時に、その現実を前にして人が抱かずにいられない幻想にもあるのであろう。「手仕事」も「伝統」と同じく、それが自覚され、価値づけられた瞬間から、こわばった、「ためにある」ものに姿を変えてしまう。ことは、かつての民芸運動のもたらしたものや、現代の「ふるさと」の祭りや芸能にも明らかだ。
手仕事の問題も一つの現れにすぎないこうした時代の全般的な精神衰弱に直面して、私たちが今、自分たちの文化と思い込んでいるものの身のあかしを、時間をさかのぼって、いくらか執念深く追究してみることも意味があろう。だが同時に、空間の広がりの中で、現在も手仕事がいやおうなしに生活の中心になっている社会、私たちが安直に未開とも低開発とも呼んできた社会、だがその実際の姿は、まだ我々にそれほどよくわかっているわけでもない社会での手仕事のありようを、少し近寄って見てみることもまた、無駄ではないと思うのである。
『サバンナの博物誌』 1979年新潮社)による
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