僕のすぐ隣に席に居るのは、この辺りの者らしい中年[1] の夫婦連れで、問屋[2] の主人かなんぞ[3] らしい男が何か小声で言うと、首に白い者を巻いた病身[4] らしい女も同じくらいの小声で相づち[5] を打っている。別に僕たちに気兼ね[6] をしてそんな話し方をしているような様子でもない。それはちっともこちらの気にならない。ただ、どうも気になるのは、一番向こうの席にいろんな格好をしながら寝そべっていた冬外套の男が、ときとき思い出したように起き上がっては、床の上でひとしきり足を踏み鳴らす[7] 癖のあることだった。これが始まると、その隣の席で向こう向きになって自分の外套で足を包みながら本を読んでいた妻が僕のほうを振り向いて[8] は、ちょっと顔をしかめて[9] 見せた。
そんなふうで、三つ四つ小さな駅を過ぎる間、僕は相変わらず一人だけ、木曾川に沿った窓際を離れずに居たが、そのうちだんだんそんな雪もあるかないかくらいにしかちらつかなく[10] なり出してきたのを、なんだか残り惜しそう[11] に見やって[12] いた。もう木曽路ともお別れだ。気まぐれ[13] な雪よ、旅人[14] の去った後も、もう少し木曾の山々に降っておれ[15] 。もう少しの間でいい、旅人がお前の雪の降っている姿をどこか平原[16] の一角[17] から振り返ってしみと見入る[18] ことができるまで。
そんな考えに自分がうつけた[19] ようになっているときだった。ひょいと[20] したはずみ[21] で、僕は隣の夫婦連れの低い話声を耳に挟んだ[22] 。
「今、向こうの山に白い花が咲いていたぞ。なんの花けえ?」
僕はそれを聞くと、急いで振り帰って、身体を乗り出すようにしながら、そちら側の山の端にその辛夷の白い花らしい者を見つけようとした。今その夫婦たちの見た、それと同じ者でなくとも、そこいらの山にはほかにも辛夷の花咲いた木が見られはすまいかと思ったのである。だが、それまで一人でぼんやりと自分の窓にもたれていた僕が急にそんな風にきょときょと[24] とそこいらを見回しだしたので、隣の夫婦のほうでも何時かといったような顔つきで僕のほうを見始めた。僕はどうも照れくさく[25] なって、それを潮[26] に、ちょうど僕とは筋向い[27] になった座席で相変わらず熱心に本を読み続けている妻のほうへ立ってゆきながら、「せっかく旅に出てきたのに本ばかり読んでいるやつもないもんだ。たまには山の景色でも見ろよ。」そういいながら、向かい合い[28] に腰掛けて[29] 、そちら側の窓のそとへじっと目を注ぎ出した。
[1]中年【ちゅうねん】
【名】
中年。(成人として中くらいの年齢。すなわち壮年期を過ぎたころから高年 期の域に入る前までを指す。)
△中年期は、身体的、社会的、家庭的、心理的に変化の多い時期です。/中年期是身体,社会,家庭,心里各方面发生不小变化的时期。
[2]問屋◎【とんや】
【名】
批发商,批发店。(卸売り業者。)
△穀物問屋。/粮食批发商。
△そうは問屋がおろさない。/事情不会那么随心如意,没那么便宜。
[3]なんぞ①【なんぞ】
【副助】【口头】
等,什么的。(「など」の老人語。)
△お茶なんぞ飲んでいきましょうよ。/去喝个茶什么的吧。
[4]病身◎【びょうしん】
【名】
病身,多病的身体。(病気にかかっているからだ。また、弱くて病気がちのからだ。)
△病身の人。/带病之人。
[5]相づち③【あいづち】
【名】
(1)对打锤。在打铁时,师傅打一锤,徒弟便跟着打一锤。(鍛冶で、師匠の打つ槌に合わせて弟子が槌を入れること。向かい槌。)
(2)帮腔,附和。顺着对方说话的意思所做的应答。(相手の話に調子を合わせてする応答。)
△相槌を打つ。/帮腔。
[6]気兼ね◎【きがね】
【名·自他动】
多心;拘泥;顾及;顾虑。(他人の思惑などを考えて,気をつかうこと·遠慮·)
△ 隣人に気兼する。/顾及旁人的感受。
[7]踏み鳴らす④【ふみならす】
【他动·一类】
踏响,跺(脚)。(床などを足で何度も勢いよく踏んで音を立てる。)
△怒って足を踏み鳴らす。/气得直跺脚。
△足を踏み鳴らして部屋を出る。/跺着脚走出屋子。
△床を踏み鳴らして騒ぐ。/脚跺地板大吵大闹。
[8]振り向く【ふりむく】
(1)〔後ろを〕回头.
(1)〔後ろを〕回头.
△彼女はわたしの方を振り向いた/她把头转向我这边.
△声をかけたが,彼は振り向きもせず行ってしまった/叫了他一声,可是他连头也不回就走了.
(2)〔顧みる〕回顾,理睬.
△振り向いても見ない/连理也不理.
△振り向く人もいない/谁都不理睬.
[9]顰める【しかめる】
[怒りや痛みで]皱眉;[憂いで]颦蹙『書』.
痛みで顔を顰める/疼得皱眉.
△眉を顰める/皱起眉头; 皱眉; 双眉颦蹙.
[10]ちらつく◎【ちらつく】
【自动·一类】
(1)纷纷地落,霏霏地下。(少量の雨や雪が降る。)
△小雪がちらつく。/雪花纷飞。
(2)不时浮现。〔見え隠れする。〕
△どすをちらつかせる。/摇晃着匕首。
(3)闪烁。(ちらちら光る。)
△目がちらつく。/眼神发光。
[11]残り惜しい⑤【のこりおしい】
【形】
(1)遗憾,可惜。(残念だ。)
△残り惜しい気がする。/觉得可惜。
△残り惜しく思う。/感到遗憾。
(2)惜别,依依不舍,依恋。(なごり惜しい。)
△別れるのは残り惜しい。/舍不得分手。
[12]見やる②◎【みやる】
【名】
(1)远眺,远望。(遠くを眺める。見渡す。)
△彼方を見やる。/远眺彼岸。
(2)(朝某方)看。(視線をその方に向ける。)
△物音のする方を見やる。/朝发出声音的地方看去。
[13]気まぐれ◎【きまぐれ】
【名】【形动】
(1)〔人〕心情浮躁,忽三忽四;没准脾气;心血来潮『成』;任性。(気が変わりやすいこと)
△気まぐれな人/心情浮躁〔忽三忽四〕的人。
△一時の気まぐれ/一时的心血来潮。
△この計画はけっして一時の気まぐれじゃない/这个计划决不是一时的高兴。
△気まぐれにやる/任性地搞;随心所欲地搞。
(2)〔现象〕反复无常,变化无常;乍……乍……,忽……忽……。(その時々で変わりやすく、なかなか予測できない)
△気まぐれな天気/乍晴乍阴的天气。
△気まぐれ相場/忽涨忽落的行市。
[14]旅人◎【たびにん】
【名】
游侠;走江湖的人。(博徒など,各地を渡り歩く人。)
△旅人はきっと自由に憧れている。/走江湖的人肯定是崇尚自由的。
[15]おる【居る】
(1)〔人が〕在zài;有yǒu.
▲ 部屋にはだれもおりません/屋里没有人.
▲ 3時までは会社におりますが,それ以降は外出してしまいます/三点之前在公司,以后要出去.
(2)〔住む〕居住jūzhù,住zhù;[滞在する]停留tíngliú.
▲ 両親はいなかにおります/父母住在乡下.
(3)〔ちょうど…している〕正在zhèngzài……,……着zhe;[動作の完成]了le.
▲ 子どもたちは庭で遊んでおります/孩子们正在院子里玩儿.
▲ 主任は病気で静養しております/主任因病正在静养.
▲ 課長は出張しておりまして,まだ帰っておりません/科长出差chūchāi去了,还没回来.
[16]平原【へいげん】
【名】
平原。(広く平らな陸地。)
△平原の住民。/平原居民。
△広い平原を見渡す。/远望广阔的平原。
△平原に馬を走らす。/骑马奔驰在平原上。
[17]一角【いっかく】
【名】
(1)一个角落,一部分。(一 つの隅。片隅。)
△氷山の一角。/冰山一角。
(2)一角。( 一つの角。)
△三角形の一角。/三角的一个角。
(3)一角鲸。(クジラ目イッカク科の 哺乳類。)
△一角は北極海だけに分布している。/一角鲸只存在于北极海。
[18]見入る②【みいる】
【自他五】
注视;看入迷;看得出神。(気をつけて見る。じっと見つめる。また、見とれる。)
△画面に見入る。/看画儿看得出神。
[19]空ける◎【あける】
【自他动·二类】
(1)挖。〔突き抜く。〕
△鼠が壁に穴をあけた。/老鼠在墙上挖了个洞。
(2)空开。〔間隔をひらく。〕
△机のあいだをもっと空けると通りやすくなる。/把桌子和桌子之间多留点空儿就好通过了。
△1行あけて書く。/空开一行写。
△道を空ける。/让路。
(3)空出,倒出,腾出。〔からにする。〕
△あとから来る人のために席をあけておく。/给后来的人空出座位来。
△部屋を空ける。/腾出房间;不在屋里。
△一ます空ける。/空出一个格。
△花瓶の水を空ける。/把花瓶里的水倒出去。
(4)留出工夫;腾出身子。
△日曜日の午後はあけておきましょう。/星期日的午后我抽个空儿。
[20]ひょいと◎③①【ひょいと】
【副】
(1)出乎意料地。没想到。突然地。忽然地。(不意に。突然。)
△ひょいと行き会う。/突然〔忽然〕遇见。
△ひょいと現れる。/突然〔忽然〕出现。
(2)偶然地。无意中。(偶然に。)
△ひょいと後ろを見た。/无意中看了一下后面。
△ひょいと小路へ出た。/无意中走到了小胡同。
(3)轻轻地。轻易地。动作轻松貌。随便。纵身。(身軽なさま。気軽に事を行うさま。)
△ひょいととびあがる。/轻轻地跳起。
△重い物をひょいと持ちあげる。/把重物轻轻地举起来。
△ひょいと馬に乗る。/纵身上马。
[21]弾み◎【はずみ】
【名】
(1)弹力,弹性。(はずむこと。)
△この球は弾みが悪い。/这球弹性不好。
(2)起劲。(勢い。)
△仕事にますます弾みがついてきた。/工作越来越起劲了。
△弾みがついてどんどん得点した。/因为打得起劲连续得分。
(3)形势。(なりゆき。)
△ちょっとした弾みで。/由于偶然的机会。
△ものの弾みで。/迫于当时的形势。
△どうした弾みかドアがあかなくなった。/不知为什么,门开不开了。
△どういう弾みかそうなってしまった。/不知什么缘故,一下子落得这样。
(4)刚一……。(……したとたん。)
△滑った弾みに足をくじいた。/要滑倒的瞬间挫了脚。
[22]耳に挟む【みみにはさむ】
偶尔听到
[23]【辛夷】 xīnyí
(1)〈植〉モクレン.
【補足】
“木兰mùlán"とも.
(2)〈中薬〉辛夷(しん い).
【補足】
モクレンまたは“玉兰yùlán"(ハクモクレン)のつぼみ.蓄膿症に用いる.
[24]きょときょと①【きょときょと】
【副】
(因惊慌等)不镇静,不沉着,毛毛腾腾。(不安や恐れなどのために、落ち着きなくあちこち見まわすさま。きょろきょろ。)
△周囲をきょときょと見回す。/贼眉鼠眼地东张西望。
[25]照れ臭い④【てれくさい】
【形】
害羞的;难为情的。(きまりが悪い。気恥ずかしい。)
△人前で歌うのは照れ臭かった。/在别人面前唱歌很难为情。
[26]潮◎【しお】
【名】
(1)潮,海潮。(海水の流れ。)
△潮の差し引き。/涨潮和落潮。
△潮の干満。/落潮和满潮。
△潮の変わり目。/涨落潮之间。
△潮がさす。/涨潮。
△潮が引く。/落潮,退潮。
△潮が満ちている。/满潮。
△潮に乗る。/趁着潮水。
△潮に乗じて船を出す。/趁着涨潮出船。
△潮を待つ。/等待涨潮。
(2)海水。(海水。)
△潮の香り。/海水气味儿。
△潮が渦巻く。/潮水卷起旋涡。
△鯨が潮を吹く。/鲸鱼喷出海水。
(3)时机,机会。(しおどき。)
△潮を見て引き上げる。/伺机退场。
△それを潮に席を立つ。/趁此机会退席。
[27]すじむかい【筋向かい】【筋向い】スヂムカヒ[3]
斜めに向かいあうこと?筋向こう[3]?
[28]向かい合い◎【むかいあい】
【名】
相对;正对面
[29]腰掛ける④【こしかける】
【自动·二类】
坐下。(椅子や台などの上に腰をおろす。腰をかける。 )
△まず腰かけてから話してくださいよ。/先坐下来再慢慢说。
△縁側に腰かける。/坐在外廊。