それから幾分か過ぎた後であった。ふと何かに脅された[1] ような心もちがして、思わずあたりを見まわすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしている。が、重い硝子戸は中々思うようにあがらないらしい。あの皸だらけの頬は愈赤くなって、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声といっしょに、せわしなく[2] 耳へはいって来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹く[3] に足るものには相違[4] なかった。しかし汽車が今まさに隧道の口へさしかかろう[5] としている事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹[6] が、間近く窓側に迫って来たのでも、すぐに合点[7] の行く事であった。にもかかわらず[8] この小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする、――その理由が私には呑みこめなかった。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考えられなかった。だから私は腹の底に依然として険しい[9] 感情を蓄え[10] ながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げよう[11] として悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久[12] に成功しない事でも祈るような冷酷[13] な眼で眺めていた。すると間もなく凄じい[14] 音をはためかせて[15] 、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたり[16] と下へ落ちた。そうしてその四角な穴の中から、煤を溶したようなどす黒い空気が、俄に[17] 息苦しい[18] 煙[19] になって、濛々[20] と車内へ漲り[21] 出した。元来咽喉[22] を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、ほとんど息もつけない程咳きこま[23] なければならなかった。が、小娘は私に頓着[24] する気色[25] も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢[26] の毛を戦がせながら[27] 、じっと汽車の進む方向を見やっている。その姿を煤煙[28] と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなって、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかったなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなし[29] に叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかったのである。
[1]脅す◎【おどす】
【他五】
威胁;恐吓。(=お···かす)(こわがらせて、いうことをきかせようとする。)
△脅して金を取る。/威胁要钱。
[2]忙しない③【せわしない】
【形】
忙碌,匆忙。(··がせく。せわしい。)
△せわ··なくごはんをかきこむ。/匆匆忙忙往嘴里扒拉饭。
[3]惹く◎【ひく】
【他动·自动·一类】
引诱,··引。(人の注意や関心を向けさせる。)
△人目を惹く。/吸引目光。
△同情を惹く。/引人同情。
[4]相違◎【そうい】
【名·サ変自】
不同;悬殊;差异。(物事の間に違いがあること。同じでないこと。)
△年齢の相違/年龄的悬殊。
△非常な相違がある/有很大差异。
△この記事は事実と相違する/这条消息与事实不符。
[5]差し掛かる④◎【さしかかる】
【自动·一类】
(1)来···,临到,靠近,路过。〔その場に来る。〕
△汽車がトンネルへ差し掛かる。/火车就要开进隧道。
△船が海峡にさしかかっている。/船正在驶进海峡。
(2)逼近,临近。〔まぎわになる。〕
△約束の日がさしかかってきた。/约定日期迫近了。
(3)垂悬,笼罩在……上shang。〔かぶさる。〕
△木の枝が塀にさしかかっている。/树枝垂悬在墙上。
[6]山腹【さんぷく】
【名】
山腹;山腰
[7]合点③【がってん】
【名·自动·三类】
(1)···可,同意,首肯;点头。(承知すること。承諾すること。)
(2)理解,可以接受。(事···をよく理解すること。納得。がてん。)
△合点がいく。/可以理解。
[8]にもかかわらず③【にもかかわらず】
【接续】
虽然…但··……。可是。(前文の内容を受け、それに反対の内容を下に続ける。)
△台風にもかかわらず出航した。/虽有台风还是出航了。
△努力したにもかかわらず成績があがらない。/虽然努力了,可是成绩没有提高。
△幾度も警告した。にもかかわらず彼女はそれをきかなかった。/警告了多少次,可是她没有听。
[9]険しい③【けわしい】
【形】
(1)险峻,陡峭,···岖。(傾斜が急で、登るのに困難である。)
△険しい道を登ってやっと頂上についた。/攀登崎岖的道路,好不容易到了山顶。
(2)险恶,艰险,严峻。(超えて行く··に大きな困難がある。)
△険··い状勢。/形势险恶。
△前途··険しいだろうと思う。/我想前途是艰险的。
(3)严厉,可··,粗暴。(表情などがきついと感じられる様子だ。)
△険しい顔。/严厉的脸色。
△険しい目つきでにらみ合う。/怒目相视。
[10]蓄える④③【たくわえる】
【他动·二类】
(1)[··资]储备;[物品、金钱]储存,贮存,贮备。(品物·金銭·力などを、あとで役立たせるためにためておく)
△万一にそなえ食糧を蓄える/贮存粮食以备万一。
△金を蓄える/积蓄金钱。
△勢力を蓄える/保存势力。
(2)[知识,技能]积蓄,积累。(知識·技能などを将来のために身につける)
(3)留。(ひげをはやす)
△口ひげを蓄える/留胡子。
[11]擡げる③【もたげる】
【他动·二类】
抬起,举起。((モテアグの約)持ちあげる。)
△鎌首を擡げる。/抬起镰刀状的脖子。
△不安が頭を擡げる。/不安涌上心头。
[12]永久◎【えいきゅう】
【名·形动】
永久,永··,恒久,永恒。(いつまでも変わらずに続くこと。永遠。)
△永久の策。/长久立计。
△永久に続く。/万古长青。
△永久不滅の数々の偉大な功績。/永不磨灭的丰功伟绩。
△永久不変。/永世不变。
△永久磁石。/永磁体, 永磁铁。
[13]冷酷◎【れいこく】
【名·形动】
冷酷无情,铁石心肠『成』。(思いやりがなく、冷たく、むごい·こと(さま)。)
△きわめて冷酷な人。/非常冷酷无情的人;铁石心肠的人。
△冷酷な仕打ちを受ける···/遭受冷酷无情的对待。
△あ···つは冷酷な人間だ。/那家伙是个冷酷无情的人。
[14]凄じい④【すさまじい】
【形】
(1)可怕,惊人···骇人。(恐ろしい。ものすごい。驚くほど激しい。)
△凄まじい光景。/可怕的光景。
(2)猛烈,厉害。(激しい···)
(3)不象话,真够呛,荒唐透顶,糟糕。(あきれた。)
△これは東洋一とは凄まじい話だ。/这也叫东洋第一,真够呛。
[15]はためく③【はためく】
【自动·一类】
随风飘舞···(旗などが風に吹かれて音を立てる。)
△旗が風にはためいている。/旗帜迎风招展。
[16]ばたり【ばたり】
ばたっと,ばたん
(副)吧嗒···扑通例:ドアがばたりと閉まる。门砰地一声关上了
[17]俄に【にわかに】
突然,忽然。
にわかに暑くなった。/突然热起来了。
[18]息苦しい⑤【いきぐるしい】
【形】
(1)呼吸困难···喘不上气,气促憋闷。(呼吸が十分にできず,苦しい。)
△息苦しい暑さ。/闷热。
△電車が超満員で息苦しい。/车内人超级多,感觉喘不过气来。
△彼といっしょにいると息苦しく感じる。/和他在一起就感到沉闷。
△息苦しいほどの緊張感。/紧张到令人感到窒息。
[19]煙◎【けむり】
【名】
(1)烟。(物が燃え···ときに出る気体。)
△煙がへ···に満ちた。/屋子里烟满了。
△汽車が煙を吐いて出て行った。/火车冒着烟开出去了。
(2)烟状物。(煙···ように見えるもの。)
△水煙···/水雾。
△砂煙。/尘沙。
△土煙。/尘烟;飞扬的尘土。
△雪煙。/雪雾。
△湯の煙がたちこめる。/笼罩着水(蒸)气。
[20]濛濛◎【もうもう】
【副】
烟滚滚,烟蒙蒙,··蒙蒙。(霧·煙·ほこりなどがたちこめて、見通しが悪くなる様子。)
[21]漲る③【みなぎる】
【自动·二类】
(1)涨满··(水が満ちて、あふれるほど勢いが盛んになる。)
(2)充··,弥漫。(力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる。)
△意欲が漲る。/充满欲望。
[22]咽喉◎【いんこう】
【名】
(1)咽喉。(のど···
(2)要路,要害。(交通の要衝にあたる通路。)
△咽喉を扼する。/扼住交通要道。
[23]咳き込む③【せきこむ】
【自动·一类】
不住地咳嗽。(続けて激しく咳をする。)
△ひっきりなしに咳き込む。/一声接一声地咳嗽不止。
[24]頓着②【とんじゃく】
【名·自动·三类】
放在···上,介意,在意。(深く心に掛けること。気にすること。懸念。)
△一向に頓着しない。/毫不在意。
△頓着無い。/没关系。不在意。
[25]気色◎【きしょく】
【名】
(1)神色,脸色。···心の状態が外面にあらわれたようす。顔色。表情。きそく。)
(2)心情,感觉。(あるも···にいだく感じ。気持ち。気分。)
(3)身体状况···气色。(病気などの身体的状態によってもたらされる気分。体調。容態。)
(4)天气状况,风云变化。(天気のようす。雲や風などの動き。また、それらにあら··れた物事の前兆。)
△風雲の··色。/风云变幻。
[26]鬢①【びん】
【名】
鬓发。(耳ぎわの髪。··た、頭髪の左右側面の部分。)
△鬢に白いものがまじる。/两鬓参杂着白发。
[27]戦がす③【そよがす】
【他动·一类】
吹动。使摇动、使颤动。(風がそよそよと軽い物をゆるがす。)
△風が木の葉を戦がす。/风吹得树叶微微摇动。
[28]煤煙◎【ばいえん】
【名】
煤烟。(石油·石··などの不完全燃焼で生じるすすや煙。大気汚染防止法では、硫黄酸化物·窒素酸化物·一酸化炭素や自動車の排気中の鉛化合物なども含める。)
[29]頭ごなし④【あたまごなし】
【副】
不分青红皂白··不由分说,不问缘由。(相手の言い分を聞かず、最初からきめつけた態度をとること。)
△由も聞かず、頭ごなしに叱りつけられた。/也不问缘由,不分青红皂白地就被训斥了一顿。