第一課山に行く
上海外国语大学 日本文化与经济学院专用 日语精读教材 《日语综合教程》第四册
本文
山に行くと、自分で何かするというよりも、周囲の状況によって動かされているという感じが強い。行動の主体は自分ではなく、環境の方である。自分の大きさを、むしろ小ささを、嫌でも思い知らされる。
ここ何十年かでぼくたちは軟弱になりすぎた。生活の場を便利にしすぎた。都会ならば百メートル歩いて飲み物の自動販売機のない道はないし、一キロ歩いておにぎりを売っているコンビニエンス・ストアのない町はない。しかし、山には持参しないかぎり水もないのだ。
人はそういうことを時々思い出した方がいい。もともと世界というものはそんなにぼくたちに都合のよいようにはできてはいなかったということを、年に二、三回は確認した方がいい。水筒が空のまま尾根に登ってしまったら、沢までの標高差何百メートルかの往復をもう一度やる以外に水を手に入れる方法はないのだ。どんな場合でも山は一メートルのおまけもしてくれない。力を尽くして登ったところをもったいないと思いながらまた降りるのだ。
以前、ぼくは冒険というのは、一種の攻撃性だと思っていた。山にしても海にしても、また極地や密林にしても、もともと人が暮らすのにふさわしくない場所だから、あえてそこへ行くことで自分を試す。そういう気負いが人を冒険にかりたてるのだと単純に信じていた。
しかし、最近ではどうもそれは違うのではないか、少なくともそれだけでは説明しきれないのではないかという気がしている。山に向かう気持ちには、山を征服するなどという強気のこわばったものではなく、何かもっとずっと優しいものがあるような気がする。人は自分の力を信じている時にはどうしても姿勢が高くなる。うっかりすると人間にできないことはないような錯覚に陥る。
そういう傾向に対して、山はなかなか強い解毒剤であるのだ。周囲の自然にすっかり依存する生活を一日でもしてみると、自分の力でできることなど何ほどでもないということがわかる。日々食べるものの配分があるのはなかなかありがたいことだと考えるようになる。生きているではなくて、生かされている。全体の調和の中の一点としてようやく自分があるということがわかる。それが、都会を離れる本当の理由ではないだろうか。
新出語句
周囲
状況
怎么没有第二课的