読み物
二十一世紀のおそろしさ
森本哲郎
もうかなり前のことだが、画家の藤田吉香氏とスペインを旅したことがある。その時私が意外に思ったのは、彼がカメラを持たず、どんな場所へ行っても記念撮影にさえ全く関心を示さないことだった。反対に私は、ちょっとでもおもしろいと思った風景に立ち会うと、やたらにカメラのシャッターを押した。
そんな私を見て彼は不思議そうに、「どうしてそんなに写真を撮るのかね。」ときいた。「どうして君は写真を撮らないんだい。」と私は反問した。画家なら私以上にいろいろな風景を撮っておきたくなるのではないかと思ったのだ。すると彼はこう言った。「いい景色があったら、覚えておけばいいじゃないか。」「覚えとけって、そういちいち覚えきれるもんじゃない。せっかくこうして旅に出たんだから、せめて記念にフイルムに収めておかなくちゃあ。」「それは君がまじめに風景を見ていないからだ。本気で一所懸命に見れば忘れるもんじゃない。」と藤田氏は言い、「カメラという便利な機械があると、つい、それに頼って人間は対象を見つめなくなるんだな。」とつぶやいた。
「で、そんなにたくさん写真を撮って、君は帰ってから、その写真をじっくりと見たことがあるのかい。』
そう言われて、私はギクとした。何十本、時には一回の旅で百本以上のフイルムにさまざまな風景を収めながら、実を言うと私はそのほとんどを見たことがないのだ。むろん見ようと思えばいつでも見られるだけの整理はしてある。
しかし、考えてみると、こうしたことは、何も写真に限らない。ビデオの場合だってそうだ。興味をひくテレビの番組があると、私は女房に、必ずビデオにとっておくように頼む。そんなビデオが今やかなりの量に達した。だが正直に告白すると、これまでとったビデオの一本たりとも私は見たことがないのである。だから、この番組を忘れずにとっておいてくれ、と頼むと、女房は顔をしかめて、「また?そんなこと言ったって、あなたったらビデオを見たことがないじゃないの。」と言う。だが、こちらとしては、いつか見ようと思っているのだ。が、見ない。いつでも見られるという安心感だけで終わってしまうのである。
まだある。新聞や雑誌の切り抜きである。その切り抜きは、それこそ山のようにあるが、恥をさらして言えば、これまで私はついぞ、それを利用したことがない。しかも、切り抜いたり、コピーしたりした記事に限って、切り抜く前にじっくりと読んだためしがないのだ。あとで丹念に読めばいいと、ついそう思うからである。カメラ、ビデオ、複写機、こうした便利な道具によって、私は自分ながら情けないほどふまじめになってしまった。